時間配分や内容の主導権は話し手にあるが、場の主役はあくまで聞き手にあるよね、という話。

聞き手は「成果」に関心があるが、話し手は「過程」に意識が向きやすいものです。

つまり聞き手は自分にとってメリットがあるか、仕事に活かせるかといった成果に関心があるが、話し手は上手く話せたか・スライドはわかりやすいかなどの過程に意識が向いてしまいがち。

授業もそうです。

教授や教案はみーんな手段。先生がどんなに上手に話そうが聞き手である生徒に何も残らなかったり、聞き流されたり、何も変わらなければ残念です。

もちろん数年経って後々生きてくる教案も沢山ありますし、それを否定するものではありません。

聞く気がある人に届けるのは簡単です。そもそもやる気があるなら人を介さず、自分で調べたり勉強しているものです。むしろ「聞く気がない」を「聞きたい」にさせたり、「熱量の低い人」を「本気にさせる」所にトレーナーの価値がある。

そんなことを生徒が気付かせてくれた。

一生懸命やってるつもりだけど上手くいかない。何がわからないのかが、わからない。大いに結構じゃないですか。一緒に考えてダメならまたやり直せばいい。そのために先生やメンターがいるのだから。

失敗とは転ぶことではない。
失敗とは転んだままでいること。

もし5年後の自分がタイムマシーンで5年前の今(この瞬間)に戻りたいなんて思わないように今、この瞬間の行動を変えていけばいい。

小学生のバレーボール教室でも同じことを考えていたことを思い出す。教室の主役は子供たち。指導者は指して・導き・支えるメンターなのだから。